ヨガが医療を支え得る役割を目指す際に最もしてはならないことは、現代医療が成し得てきたことの否定だと考えています。当協会におけるヨガセラピーの役割は、あくまで医療を補完するものであり、代替するものではありません。

医療化とは

近代社会では医療の成熟に伴い、医療化が進んできました。医療化とは「かつては医療が扱うべきものとされていなかった現象が、医療の対象になること」をいいます。それには、メリットもデメリットもあります。こちらにわかりやすくまとめられています。

「医療だけに頼っていては健康になれない」(他サイトへ飛びます。)

どんな人も逸脱した存在とみなさない

一方で、私たちヨガセラピストの役割とともに「逸脱と医療化」論における逸脱という概念を考えてみたいと思います。

ヨガセラピーの倫理でも学ぶ、ヨガの哲学の根底にある考え方に「非暴力」があります。暴力というと身体への暴力が先に想像されると思いますが、ヨガにおいては「相手の存在を否定しない」「ありのままに受け入れる」という心理的非暴力も含まれます。

ありのままという言葉ほど難しい態度はないと考えています。他者に対し、自分と自分以外、つまりme or Not meで判断する際、境界の外に対しては全理解などできるわけがありません。理解できない部分に対し、主観による評価、判断が生まれ、時に善悪の価値観が付与されます。悲しいことに私たちは自分のありのまますら否定することさえもあります。

人それぞれ自らの価値観、あるいは社会から与えられた規範から逸脱することは「悪」と捉えられがちです。しかし、本来、正義や真実というものは、それを信じている主体にとっての正義や真実であるに過ぎず、立場や見方が変われば、一方にとっての正義は一方にとっての悪となります。

自らの正義に基づき相手の存在を否定することは、ヨガの考え方では暴力となります。ヨガで行うあいさつである「ナマステ」には、自分も大切、あなたも大切、という意味が込められています。自分の正義を尊重するように、あなたの正義も尊重しましょう。簡単にはできないことです。しかし、自分と相容れない正義を持っていたとしても、その他者にも命ある限り何も間違っていないのです。

母親から、いや脈々と続く命の連鎖から、命を授かって生まれてきたことは奇跡であり、その命を傷つけたり殺したりしてはならない。そしてその考え方は、医学の祖とされるヒポクラテスの誓いにこそ表されています。しかし現代医学においては、病と健康の間には明らかな境界線が存在し、病とはすなわち定義によって決定づけられるものとなりました。

命を脅かすという点では、病は治療されるべきものであり、そのために専門家が存在します。しかし私たちヨガセラピストはむしろ私たちが医療職でないことを大切にする必要があると考えています。年齢、性別、病の有無に関わらず、息さえできればヨガはできる、という考えのもと、ヨガセラピストは常に人を逸脱した存在として扱わない立場で、医療によって救われる人をヨガの手法を用いて支え、力づけていく必要があると考えています。

《参考書籍》

逸脱と医療化: 悪から病いへ. ミネルヴァ書房, 京都, 2003.