AI技術を駆使した無人レジ

院生の調査として、カナダと米国を訪れてきました。いずれの国でもレジは自動化され、公共交通機関にも電子化が浸透していました。技術革新のスピードにはもはや驚くことはないのですが、日本に帰国する際にAmazonが試験運用している、無人店舗を興味本位で利用してみました。ゲートにてアプリかクレジットカードを差し込み入店しますが、天井には人の動きを感知するのでしょう、カメラが張り巡らされています。(写真1)

私の歩き、手の動き、などを総合的に分析され、購入したものを持って外に出るとチャージされる仕組みです。ゲートの外には一応監視員が立っていたので、どうやって精算するのかと念の為尋ねたところ、そのまま出てくるだけでいいとのことでした。おそらく精緻な技術が使われているので、エラーはないと思うのですが念の為帰国したら、正しくチャージされているかを見て見たいと思います。

今より少し、緩くてのりしろがあった時代から間違いを起こさない時代へ

米国ではメリーランド大学統合医療センターのDivision Chief のSuzieとヨガセラピーについての話し合いをもつ傍ら、15年前ともに学んだ日々に起きたさまざまな出来事についても懐かしく語ってきました。その多くが今は笑い話になっている失敗談です。

社会はどんどん、間違いを起こさない、起こせない方向に向かっています。コンプライアンス(法令遵守)のために多くの人が働き、技術によって防ぎうる危険は最小化されています。例えば、車にリアカメラが搭載されたことによって、どれだけ車庫入れの事故が減ったことでしょう。

いつも何かに繋がれ、監視されている

それでも今回の店舗利用の経験で感じた違和感を、忘れないうちに記しておきたいと思いました。いずれ私もその環境に慣れていくことでしょう。私たちの行動は物理的に監視され、記録されていきます。世の中は「ねばならない」に溢れています。子供は遊びたい盛りでも勉強せねばならず、健康長寿のためにはリスクのある行動は控えねばならず、デジタル化の波に追いついていかねばなりません。そのこと自体はもちろん悪いことではないのですが、いずれ、そのような行為が正しく行えているかも監視され、時に管理されるかもしれません。

いつも何かにつながれ、監視されていることに次第に違和感を覚えず、慣れていく時代の中で私たちは強制的に正しい行動に誘導されていきます。失敗から学ぶ機会は良くも悪くも減っていくことでしょう。

心は監視できる?

だけど、心はどうでしょう?私たちの心は監視されうるのでしょうか。カメラで一挙一動を追われていることを認識している私の緊張感はもしかしたら腕につけていたスマートウォッチ上で何らかの変化を示していたのかもしれません。

そう、行動は監視されても、心は勝手に動き回ります。どんなに監視されても、考えは人それぞれ、自分の宇宙を彷徨います。せめて心だけは、自由でありたいと願っているかのように。

私が今回の無人レジで感じた恐怖は、身体が監視されていることへの違和感に加え、心まで見透かされているように感じたことから来ているのかもしれません。無人レジで行動を監視されることには、おそらくすぐに慣れていくことでしょう。だけどもし、心もそれに慣れていってしまったら、何が起こるのでしょう?それをよく言えば順応ですが、悪く言えば鈍化です。監視されることによって、もし心も「人ごと」になったら?自分が誰なのかわからないような不安に襲われてしまうのではないか、と感じました。

自分を取り戻す時間としてのヨガ

このコラムを読んでくださっている方々の多くが、何らかのかたちでヨガについて考えていらっしゃるかと思います。ヨガが私たちの心身に果たせる働きは、どのようなストレッチをするか生理学的にどのような変化が起こるか、ということだけではないように感じています。自分の身体感覚を取り戻す時間であるだけでなく、多少の不完全さに対しても許容できることを確認する時間。例えば、ポーズは安全である限り完璧である必要はありません。

今よりもう少し緩くて、かすり傷や不要なのり代もたくさんあった時代があったことをふと懐古しながら私たちを取り巻く環境が猛烈な勢いで「物理的な管理社会」に突入する中、いつか、私たちの心や体は「解放して!」「自由にして!」と叫び出すのではないでしょうか。生活の中でヨガをされている方々は、吐く息や自分の体の動きに、そのような自由を謳歌されているのではないかと思います。

ヨガに限定することなく、今後、人々のそのような鬱憤が、文化的な方向で解放されていく出来事が増えていくのではないかと感じました。以上、興味本位で入店した監視カメラから感じたことを報告さえていただきましたがもし皆さんが今後、何らかの窮屈さを感じた時、ぜひ短い時間でもヨガをしてみてください。気持ちよく背伸びをし、息をゆっくり長くはいた時に、そこから得られる何らかの解放感を思い出していただけましたら、嬉しく思います。