ケアラーには法律的定義はありませんが、日本ケアラー連盟の定義では「こころやからだに不調のある人の「介護」「看病」「療育」「世話」「気づかい」など、ケアの必要な家族や近親者、友人、知人などを無償でケアする人のこと」です。

日本ヨガメディカル協会では無償でケアにあたる人だけでなく、対価を得てケアを行う介護職、看護職も広く含め、ケアにあたる人のケアの必要性を伝えていきたいと考えています。

厚生労働省によるヤングケアラー支援の資料に、当事者の声として次の言葉が書かれていました。
(大人になったヤングケアラーの声)「ヤングケアラーにとって必要なのは、気付いてくれる目と第三者の積極的な介入です。」『気付いて欲しい』という声の背景には自分より脆弱な相手をケアする責任感の前に、自らの脆弱性を隠し、努力し続けている姿が想像されます。

例えば、同じく無償でケアを提供する産後の母親は、乳児の絶対的な欲求(授乳、おしめ替え)の前に、自らの欲求は相対化(優先順位を下げる)せざるを得ません。産後の母親が精神的不調に対し救援要請を出せない背景には「良い母親でないと思われたくない」という気持ちがあることが報告されています。「大丈夫か?」と問われても「大丈夫じゃない」とはなかなか言えないわけです。

弱音を吐けないことは、裏返せば責任感があるということです。しかし、助けてと言えないことで精神的に追い詰められてしまう方が少なくないことでしょう。

ヨガでケアラーの問題を解決できるという単純な話ではないと考えています。しかし「苦しみ」ということを考えたとき、二律背反した感情、すなわち「自分のケアを肯定したい(自分は一生懸命やっている)」「自分が感じる辛さ」のどちらかに答えを出さなくてはならない、と考えてしまうことによる葛藤が多くのケアラーには存在するように思います。

自分自身、葛藤を抱えたとき、ヨガ哲学 – (評価、善悪の判断をしない)を学ぶ上で先生から教わった言葉である“ How human of me ! “ (なんて人間らしいこと!) 「あなたの考え = あなた自身ではない。何かひどいことを自分が考えてしまって、そのことで自分を責めたくなった時は、この言葉を唱えなさい」という教えに救われた気がしています。

ケアする人が心身リフレッシュできる機会の創出、ということはもちろん大切ですが、それと同時に葛藤を抱え努力を続けるケアラーの方々には「自分の感情を善悪の判断をせずに見守ってみること」自分を責めないということを出発点に「ちょっとしんどい、助けてほしいと言いたい」気持ちを認めることを体験する機会の創出も併せて行えないものかと思っています。